どことなくアールデコ。

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とりわけ目立つ建物ではない。けれども、銀座の高層ビルに挟まれた、その時代に取り残されたかのような風情にふと興味を感じたのである。
 「KAIZOU BOOK」と書かれたこの本屋に出会ったのは某通信社会社説明会の帰りだった。着慣れぬリクルートスーツに身を包み、自由な学生生活の終焉がみえてきた私にはその本屋はオアシスのように思えた。昭和初期のアールデコ風味。明らかに個人経営の書店だ。それを信号待ちの交差点から凝っと眺めていると、突然視界がブレた。
 ──ふと、思いつきがあったのである。「KAIZOU」、そして本屋。半信半疑ではあったが、かつて一世を風靡したある会社が脳裏をよぎった。
 
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 店内に入ると、すぐ隣のカウンターに男が座っている。おそらく経営者であろう。私がよく行くような古書店と変わらず、愛想があるのだかないのだかわからないような人間だ。本はすべて新品だが、その品揃えにはこだわりが見られた。ただ人気のある本を集めているのではなく、本屋が面白いと感じたものを集めているタイプ。こういった本屋は好きだ。まだ出会ったことのない、奇抜な本に出会うことができる。
 
 端から端まで物色して、結局二冊の本を選んだ。
 一冊目は『千の顔をもつ英雄』。神話を題材に物語の本質を述べるという内容らしい。これは米国で国家による監視を告発した、エドワード・スノーデンがお気に入りにしていた本だった。
 
 話は脱線するが、私がよく使う次の読書本を決める方法に、「ジャンプ」と呼んでいるものがある。読み終わった本のなかに出てきた本を、次に読むというものだ。今回はスノーデンが告発に至るまでを描いた『暴露』のなかから「ジャンプ」したというわけだ。
 
 二冊目は『幻想建築』という小説。建築のコーナーにあったものだから、実際には建てられないような建築コンセプトを集めたものかと思っていたが、どうも違うらしい。まあ読んでみてのお楽しみだ。
 
 居眠りをしていたカウンターの男は、私が呼びかけると丁寧な対応をしてくれた。けれどもそのあまりの「普通さ」は、かつての姿からは想像もつかない。
 
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  戦前、「円本」という画期的なアイデアで日本を席巻した会社があった。それまで高価だった書籍を文庫という形で安価に提供した岩波書店。そしてその流れをさらに推し進め、その会社はあらゆる古典を1円で販売するというのである。
「すべての人に教養を広めたい」、そんな思いからできたものだろう。しかし、批判も多かった。というのも、インテリに思われてモテたい大学生なんかが、部屋のインテリア代わりにこの円本を購入したからだ。
 もちろんそれだけではない。子供にたくさんの知識を身につけてほしい親や、金のない学生にも円本は喜ばれた。そして、それを発行した社名こそが───「改造社」だったのである。
 
 改造社はこの円本のほかにも、世界中から知識人を招いたり、芥川龍之介など文豪がその雑誌『改造』に寄稿したことでその名を轟かせた。もし改造社がそのままの地位でいたのならば、今頃新潮社や岩波書店にも劣らない大書店になっていたことだろう
けれども、改造社は戦後急激に衰退していった。かつて世界を舞台にしていた大会社は、遂には「町の本屋さん」に落ちぶれていったのだった。
 
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東京を歩いていると、日本の歴史を垣間見ることがよくある。もうすぐ潰れるといわれる中銀カプセルビルや、九段会館もその類だ。それまで書物やブログといった「ガラス越し」で見てきた事象が目の前に現れるときの感覚。急激にあらわれるリアルとでもいえるだろうか。私はこの感覚が好きでたまらない。さあ、次はどんな歴史に立ち会えるのだろう?

6年前に切った『花咲くいろは』は、素敵なアニメだった。

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僕は『花咲くいろは』を一度切っている。放映当時は作中の主人公・松前緒花と同じ高校2年生だった。東京ですれていた緒花は、母親に捨てられたような形で田舎の祖母の元に送られ、その祖母が経営する喜翠荘で仲居として働くこととなる。しかしそこでも、祖母は厳しく、同年代の従業員にも嫌われ、散々な目にあう。僕は元来こういったストーリーは苦手だ。感情移入しやすいタイプなので、辛くなって視聴をやめてしまった。未来が雲がかっていた当時の僕にとって、『花咲くいろはは現実的すぎたのだ。

 

その6年後、将来がある程度みえてきた大学卒業間近の僕は、プライムビデオでたまたま『劇場版 花咲くいろは HOME SWEET HOME』を見つけた。少しでも観てみようという気持ちになったのは、放送終了後に目にしたあるニュースが引っかかっていたからだ。『花咲くいろは』ファンの男性が、石川県の旅館で仲居として働くことになったというニュースである。そんなに夢中になれるアニメだったのだろうか、と思ったのを憶えていた。

 

すぐに飽きるかもしれないな、と考えながら視聴した僕だったが、その予想は完璧に外れていた。僕は最初から最後まで、この映画に魅入ってしまったのである。

『劇場版 花咲くいろは』は緒花が働く旅館・喜翠荘に残された日誌を通して、緒花の母・皐月の過去を知る物語だ。高校生の皐月は上京を夢見ていた。実家である旅館や田舎町に縛られ、つくられたレールの上を進むしかないという未来。それを嫌がり、東京でのドラマを夢想するのはよくある話だ。そしてそれは、東京での灰色の生活から抜け出したかった緒花と鏡合わせでもある。そんな状況が変わったのは、のちに皐月の夫となるカメラマンと出会ってからだった。「私、輝きたい」。そう叫んだ皐月に対し、東京から来たカメラマンは「君はとても輝いている」と言う。カメラを通して皐月をみるという構図は、視聴者と重なっている。このカメラマンは視聴者の代弁者でもあるのだろう。自分を認めてくれる存在に出会った皐月は、やがて彼に恋し、彼を目指して上京する。それが正しかったかはわからない。けれど、彼女はひとつの選択をしたのだ。

「私、輝きたい」。映画のキャッチフレーズでもあるこの言葉は、緒花の現在の想いでもあった。緒花は今まで知ることのなかった母の側面に触れることで、「輝くとはなにか」を探してゆくようになる。高校生の僕ならば、「そんなものは小っ恥ずかしい」と切り捨てていたかもしれない。でもそこからしばらく経ち、ようやく客観的に過去を振り返れる今ならば、全力で頑張っている彼女らは一番格好良く、美しく思える。

 

劇場版のあと、すぐにアニメの「続き」を見始めた。僕が視聴していたのは、緒花が喜翠荘を酷評した編集者の母・皐月に直談判にいく話までだったらしい。出版社の前で座り込み抗議をする緒花は、見るのが辛すぎたのだ。

次話で緒花が皐月にみせた喜翠荘は、6年ぶりに目にした僕にも新鮮で、輝いてみえた。僕はかつて、京都の老舗旅館で働いていたことがある。大正時代に建てられたその旅館には、同じように怖い女将さんや、気さくな番頭、若い仲居さんがいた。そしてやっぱり、厨房は聖域だった。将来は女将になることが決まっている若女将や孫娘がいる女将は京都ならではの回りくどい叱責をしていたけれど、その怖さも旅館をきちんと回すためには不可欠なものだったのだ。そしてそれは、喜翠荘でも変わらない。

喜翠荘で起こる数々の出来事を通して、緒花は成長してゆく。つねにめげず、誰にでも開放的な彼女の周りはいつも賑やかだ。

 

最終話近辺、突然に女将から喜翠荘の閉館が予告される。それは日常系アニメにありがちな、最終話付近のシリアス転換からのカタルシスとは違った。このアニメでは本当に閉館してしまうからだ。

松前緒花は、女将である四十万スイから本心を聞かされる。昔話を語る女将の姿は、このときにはすでに女将ではなく、祖母として緒花の眼に映っていた。夫とともに旅館をはじめ、一代で築き上げた喜翠荘のストーリー。それまでこのアニメのすべてであったこの舞台が、スイの話を聞くことで途端に小さく、儚いものに思えた。緒花の言った「年寄の話はよく分かりません」という言葉は、現在を必死に生きる女子高生としての率直な感想だっただろう。そしてそれは、視聴者の感想と同じではないはずだ。

 

おそらくこのアニメは、視聴者が主人公に没入することを意図していない。はじめから、彼女らの青春を離れたところで見守るアニメなのだ。それが明瞭なのは、最終話で緒花が去ったあと、四十万スイがひとり佇むシーンである。「待ってるよ」と去ってゆく電車に呟いた元女将の言葉は、視聴者の気持ちを代弁している。登場人物のそれぞれが新生活を始めるなか、四十万スイだけはその描写がなかった。それは彼女が、いつまでも彼女らの帰りを待つという、視聴者と同じ役割を担っているからだろう。そうだ。僕はあのとき、『花咲くいろは』の見方を間違えていた。

 

喜翠荘は閉館する。従業員もいつか再開することを決意して、解散してゆく。そして緒花にとって、そして僕にとってもひどく遠いものに思われた東京での生活が戻ってきた。しかしそれは、一見かつての日常に帰っただけにみえて、実はまったく違っている。

まだ蕾だった緒花は、喜翠荘と出会い、母親を理解し、孝一に想いを告げて、四十万スイという目標をもったことで花開いたのだ。『花咲くいろは』ファンの彼がいうように、「緒花は何に対しても一生懸命で決して信念を曲げな」かった。緒花はこれからも全力で生きてゆくだろう。そんな彼女の生き方はひどく輝いている。『花咲くいろは』は、とても素敵なアニメだった。